わたしは冠婚葬祭が嫌いで、特に葬式は嫌いだ。まあ、葬式が好きでたまらない人はそういないだろう。しかし、わたしの場合、結婚制度に反対なのだが、それでも葬式のほうが結婚式より嫌いだ。
なぜなら葬式は主役が不在だからだ。主役の死人のためではなく、残った周りの者たちのために行われる。
それだけならまだしも、葬式というものはしばしば、死のもつ重みを悪用した醜悪な政治集会になる。「故人は生前は善良な人柄で皆に愛されていた。残された家族は悲しみにうちひしがれながらも健気に生きていくだろう。お父さんも亡くなったし、兄弟のいさかいはもうやめにしよう」みたいな。
人の死は重い。重いからこそ慎重に扱われなければならない。「英霊」とか持ち上げたふりをして軽々しく人の死を利用するような政治家の行う政治は、まさしく人の死を軽んじている。
小泉の靖国参拝。これはまぎれもないひとつの政治的主張だが、そのために人の死を利用するのは卑怯だ。主張は言葉だけで語るべきだ。
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靖国参拝に関しては、靖国から利益が誘導できるから利用する人間がいるということなのでしょう。
靖国が直接何かの利益を産み出しているわけではないので、あくまで感情を利用できるという程度の利益ですが、感情だからこそ利用しやすく拗れやすいと言えますね。
しかしまあ、これに関して言えば靖国が直接利益を産み出す存在ではない以上、時が靖国を無価値にすることで問題が解決するのだろうと思いますね。
私自身、大叔父が戦死しておりますが、一応血族とはいえ、顔も素行も何も知らない人間を尊敬しろと言われても無理な話ですし、そんなことに未だに引きずられるのは迷惑以外の何物でもないのです。
ただまあ、記憶が薄れるという事は物事の光と影の両面が薄れるということなので、光の面だけを強調したプロバガンダに流され易くなるというリスクも増えることになりますので、物事に関しての両面性を考え、よりましな選択をする事が必要になりますね。
最後に、靖国という存在が現実のものとしてある世代と、そうでない世代の入り交じった今が一番危ない時であるとも感じますね。靖国並びに国家主義的な物の顕在化はその現れかもしれません。