2007年02月13日

ケータイ短歌を詠むサル

 わたしにとってラジオといえばNHK第一放送。「おしゃべりクイズ疑問の館」で頭をひねり、「わが人生に乾杯!」で笑い、「ふるさと自慢うた自慢」で年寄りのお国自慢にうなずく。「ひるのいこい」の「農林水産通信員」が「ふるさと通信員」に名称変更されたときは、ベルリンの壁の崩壊よりも衝撃だった(嘘)。
 そんなわたしにも、どうしても気に入らない番組がある。「土曜の夜はケータイ短歌」という、若者が投稿した短歌を紹介する番組だ。しかし自分でもあの番組のどこが不快なのか、今まで分からなかった。確かに若者たちの短歌はつたないが、まるで歌心のないわたしが言えた義理じゃないし。
 ところが、さいきん正高信男『ケータイを持ったサル』を読んで、その疑問が氷解したようにおもう。一言で言うと、彼らの短歌はすでに言語によるコミュニケーションにさえなっていないことがわたしには許せないのだ。
 もちろん彼らの短歌は日本語で綴られており、言葉には違いない。しかし、何を詠んでいるのか分からないものが多い。正直なところわたしには古典の素養が欠けているので百人一首なども意味が分からないものが多いが、ケータイ短歌が分からないのはそれとは事情が違う。なぜ分からないかと言えば、内容があまりに個人的すぎ、しかもそれを他人に分からせようとする気がてんでないからだ。
 例を挙げてみよう。NHKのサイトで作品が紹介されている。どれも「名作」ぞろいで選ぶのに困るが適当に2首引用してみる。

暖房がききすぎているファミレスでつめたくなってくあたしの未来

パンプスの踵の雪の冷たさがあの日のキズにもしみ込んでいる


 どうだろう。わたしゃこうして眺めるだけでイラついてくるよ。こういうこと書きたかったら「秘密のノート」とかにしたためて机の奥深くしまっておきなさい!決してヒトサマにお見せするようなものじゃないから!
 言うまでもなく、若者たちはわざわざ放送局に投稿しているくらいだから、自分の短歌を他者に聞いてほしいのにはちがいないが、その短歌の内容を理解してもらおうとまでは考えてないのではないか。あるいは、せいぜい自作の短歌の「雰囲気」がある程度伝わればそれでよしとしているのでは。
 それはサルの鳴き声によるコミュニケーションと同じだ。サルは鳴き声によって仲間に自らの存在をアピールする。ケータイ短歌も、ただ存在をアピールする鳴き声にすぎない。立場や考えの違う他者に言葉を使って自らを説明しようという姿勢がない。もっと敷衍すると、異質の他者と同じ人間社会を形成しているという自覚が感じられない。
 こう書くと、まるで年寄りの繰り言のように思われるかもしれないが、若者のみならず年齢にかかわらずちゃんとした言葉によるコミュニケーションができない人は増えているように思う。他者と丁寧に言葉をやりとりすることは、安易な短歌もどきを鳴き声よろしく発することよりずっと面倒だが、それができなければそもそも社会が成り立たなくなってしまう。このまま人類がサルに退行していったら大変だ。チンパンジー似のホワイトハウスの主を見よ。

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posted by 労働者L at 21:00| 日記