何を今さらそんな分かりきったことを、と思われるかも知れないが、この単純明快な分かりきったことにいかに重みがあるか、という話をしたい。
わたしは選挙のたびにネパールの日々を思い出す。わたしは91年にネパールの首都カトマンズの近郊に滞在していたことがある。90年に民主化運動が勝利した結果、ちょうどわたしが滞在している間に約30年ぶりの議会選挙がおこなわれることになった。
ひとくちで選挙をおこなうと言っても、ネパールでは大変なことだ。まず、ネパールには戸籍も住民登録もないから、有権者の名簿を一から作らなければならない。そのために選管の職員が一軒一軒を訪問してそこの住民を調査する。これだけでも大変だ。そもそもネパールでは誕生日を祝う習慣がないので、自分の誕生日を覚えてない人が多い。だから年齢をはっきり確定するのが難しく、有権者名簿を作るのにも支障があるのではないか。
そして投票日。どこの投票所にも長い列ができていた。南アジアの炎天下の中でみな辛抱強く順番を待っていた。30年待たされた人たちにとっては、これくらいの行列はたいしたことないのかも知れないが、日本だったらみんな投票を諦めて帰ってしまうだろう。
投票を済ませた人は指の爪に塗料を塗られる。選挙はがきなどないので、こうして二重投票を防ぐ仕組みになっている。この塗料は一応簡単には落せないことになっているが、誰それは塗料を洗い落して5回投票したとか、いやあの人は10回だとか、マユツバな噂話が飛びかっていた。
選挙管理委員会は1週間で開票作業を終わらせる、と豪語していた。投票日の晩に開票が終わってしまう日本に比べればいかにものんびりしているように感じられるかも知れないが、わたしはこの1週間という目標さえ到底達成できないだろうと考えていた。何しろネパールはヒマラヤの国で、車が入れるところから歩いて1週間かかる、などという村はいくらでもある。というよりむしろ、90年代初めにはまだ車道は辛うじて主要都市を連絡していたに過ぎない。日本で言えば県庁所在地に相当するような町でも車道が通っていないところがあちこちにあるほどだ。
それにもかかわらず、開票が10日ほどでほぼ完了したのには驚いた。山間部では軍のヘリを活用して投票箱を集めたようだ。厳しい条件下でここまで出来るとは予想外だった。
人々が選挙に寄せる期待は、日本では想像できないほどだった。町中に選挙のスローガンがあふれ、壁という壁に政党のマークが描かれていた。識字率が低いので、投票用紙に印刷された政党のマークに印をつけて投票する仕組みになっているからだ。例えば、会議派は木、共産党マルクスレーニン主義派は太陽をマークにしていた。この二つが当時の二大政党であった。人が集まれば選挙の話になった。みなわたしから日本の選挙の様子を聞きたがった。
カトマンズは投票の数日前からすでにお祭り騒ぎだった。会議派や共産党のデモが町を埋め尽くし、都心部は「解放区」の様相を呈していた。開票が始まり、カトマンズ盆地での共産党の圧勝が明らかになってくると、再び町は歓喜のデモで埋め尽くされた。自分たちの代表を自分たちで選ぶ喜びを、みな全身で表現していた。まさにお祭りと呼ぶにふさわしい、解放感あふれるデモだった。若かりしわたしも毎日デモに赴いた。節操なく会議派のデモも共産党のデモも参加していた。70年安保の頃に生まれたわたしにとって、それは期せずしてやってきた政治の季節だった。今から思えば、前年の流血の民主化運動も知らない暢気な先進国の若造の「いいとこ取り」だったが。
あれから14年。政争に終始する政党政治は国民から愛想を尽かされ、議会は国王によって解散させられ、共産党毛沢東主義派と政府の二重権力状態になっている。ポルポト派を賞賛する毛沢東主義派は、農地解放に手をつけられなかった民主政治に対する農民の絶望感を糧に成長してきた。
91年のネパールの人たちの目の輝きを思い出すと涙が出てくる。
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